Mag-log in私が流産した夜、私の夫はーー家政婦の娘に付き添って、妊婦検診を受けていた……。 その事実を知った時、燈(あかり)は夫を捨て、新しい世界へ足を踏み出す! 政略結婚をした久遠燈(くおん あかり)は二年前のあの事故でメスを置き、専業主婦となった。夫の久遠湊(くおん みなと)は脳外科の部長として、そして若き脳外科医のエースとして第一線で活躍している。 二年前のあの事故。全てはそこに起因している……。 湊の親友、颯太の死。 そしてそこに絡む愛沢くるみの影……。 久遠湊、森崎颯太、佐伯燈、そして絡み付く愛沢くるみ。4人は幼馴染でもあり、互いに相容れない感情を持っている……。
view more「久遠さん!しっかり!」
ストレッチャーに載せられ、救急車へ運ばれる私は、腹部を襲う激しい痛みに、不安はますます募っていく。スマホの画面に付いた血の跡に構う余裕もなく、発信音を聞きながら、視界が少しずつ滲んでいく……足の間を伝わる生温い感覚、止めどなく流れているであろう体内から排出される血。それと対比して私の体温は下がって行く。救急車の中の医療スタッフの切迫した声が響く。
プツ……
電話が繋がった。
「……用件は?」
スマホから聞こえて来る冷たい声。夫の久遠湊の声だ。その声は落ち着き払っていて、私とは少しでも言葉を交わしたくないという感情がその声のトーンで読み取れる。
「湊……大変なの……私、血が、出て……赤ちゃんが……」
一瞬の静寂。答えが返って来ないその数秒は私にとって何よりも長く感じた。
「血……? 赤ちゃん?」
湊の声は“私が何を言っているのか全く分からない”といった雰囲気だ。そして大きな溜息が聞こえ、湊が冷たく言う。
「同じ手口を何度使うつもりだ?」
スマホの向こうからガヤガヤと声がしている。
「俺は忙しいんだ、君も知っているだろう? 君の芝居に付き合っている暇は無いんだよ」
私は涙を流しながら言う。
「違うの……本当に……!」
そこまで言って痛みが走る。言葉が切れてしまう。それでも伝えなくちゃいけないと思い、言う。
「今、救急車で……運んで貰ってて……」
その時だった。
「湊さん、誰と話してるの?」
スマホの向こうから女性の声がする。柔らかく甘えた口調、そしてその声の主を私は知っている。その声を聞いた瞬間、思わず息を呑み、心臓が強く跳ねる。
柔らかく甘えた口調、そしてその声……まさか、彼女……?
―——そんなはず、ない……
「くるみ……何でも無いんだ。大丈夫」
湊の言葉は重い一撃のように、私がずっと目を背けてきた予感を容赦なく裏づけた。
――くるみ……やはり、彼女だった。我が家の家政婦の娘の名前。
(湊は今、彼女と一緒に居る……どうして彼女と一緒に居るの?)
「ねぇ、湊さん、一緒に検査結果を聞きに行ってくれない?」
甘えるような声でそういう彼女に湊がふわっと笑うのがスマホ越しでも分かる。“何でも無いんだ”その一言を聞いただけでも分かる。私と話す時と彼女と話す時の声のトーンやその態度の違い。あんなに優しい声で話す湊は、私はもう何年も見ていない。
(でも、どうして……?湊は今……なぜ彼女と一緒にいるの?)
その疑問が、頭の中でグルグル回る。鼓動が激しくなり、息が苦しい。流産の危機に瀕しているから、鼓動が激しいのだと自分に言い聞かせる。私は震える体で息を吸い込み、血のついたスマホを握り締め、何度となく浮かんでは消える同じ質問を言葉にする。
「湊……何でくるみと……どうして……」
直後、スマホの向こうでアナウンスが流れる。
「愛沢くるみさん、妊婦検診でお待ちの愛沢さん、診察室三番へどうぞ~」
それが聞こえて来た次の瞬間にはプツッと通話が切れ、ツーツーツーと冷たい電子音が響いていた。
妊婦検診――
その言葉が私の心を引き裂く。
乾いた笑いが込み上げて来る。笑っている筈なのに涙が溢れて止まらない。もう手に力が入らなかった。手からスマホが滑り落ち、救急車の床にスマホが乾いた音を立てて、転がった。
(……そうだったのね)
両脚の間に温かい感触が伝わり、体内の血液は止めどなく流れ出す。それに反して私の体温は少しずつ下がっていく。
なんて、滑稽なんだろう。
私が流産の危機に瀕している時。
私の夫は他の女の妊婦検診に付き添っている。
しかもその女は、私の家の家政婦の娘だ。
「久遠さん、点滴をしますよ」
医療スタッフがそう言い、私の腕に針を刺す。痛い筈のその感覚を私はもう無くしていた。
乾いた笑いが込み上げる。すぐに痛みが走って笑っていられなくなる。手が冷たくなっていき、感覚が無くなっていく。医師である自分でもこの状態が良くない事は分かっている。
(きっと、もう、ダメ、なのよね……)
意識が朦朧とする中で、私はもう二度と目覚めたくない、と心から思った。
メッセージが届いていた。~加山さん、久遠家には着いたかしら? もし出られそうなら会って話したいのだけど~そう綴られているメッセージ。以前の私なら、何か理由を付けて、久遠家を出て、愛沢くるみに会いに行っていただろう。どうしてそうも、盲目的に愛沢くるみに時間を費やしていたのか、自分でも分からない。さて、何と返信しよう。しばしの間、考えて私は文字を打つ。~くるみお嬢様、お誘い頂きありがとうございます。ですが、久遠家からは出られそうにありません~それだけ打って送信する。この事も燈お嬢様や湊坊ちゃんにも報告しておかなければ。◇◇◇「和輝から連絡が入った」高嶺遼大にそう言われて私は聞く。「何て?」そう聞くと高嶺遼大が言う。「レーザー治療の予約は明日だそうだ」そう言われて私はタイミングの良さに感心する。全てが上手く噛み合っているように感じる。「急いで作った甲斐があったわね」そう言うと高嶺遼大が笑う。「そうだな」聖カトリーナで私が使っている特別室に入る。「明日はどうするの?」そう聞くと高嶺遼大が言う。「俺は森崎家には入りやすい。何せ、俺は森崎家の息子だからな」それはそうだ。この間もそれで遼大には愛沢くるみの部屋に行って貰ったんだから。「じゃあ、私が一条クリニックへ行って、アトマイザーのすり替えね」私がそう言うと高嶺遼大が頷く。「あぁ、それが一番、燈にとっても安全だ」安全と言われて少し笑う。「安全?」聞き返すと高嶺遼大が私を抱き寄せて言う。「そうだよ、燈の安全が一番大事じゃないか」高嶺遼大を見上げて聞く。「そう?」高嶺遼大は私の頬に触れて言う。「一条クリニックなら、和輝も居る。その他のスタッフも居る。他人の目があるのは大事な事だ」それはそうだろう。誰よりも他人の目を気にしている愛沢くるみが相手なのだから。五年前のあの日が脳裏に蘇る。あの日、湊の個人オフィスで。私は愛沢くるみと二人きりになった。その途端、愛沢くるみは化けの皮を剥がして、私に牙を剥いたのだ。自身の悪意をこれでもかと私に浴びせた。あれ程の吐露をしておきながら、五年経った今、愛沢くるみは私の前でも可憐に振る舞おうとしている。それが周囲の目を欺く為に、周囲を自分の味方にする為に、必要な事なんだろうと分かっていても、苛つきを超えて、おぞましいとさえ感じ
加山良江の立候補を聞き、私と高嶺遼大は顔を見合わせて頷き合う。「それならお願いする形になるけれど」そう言うと加山良江が言う。「承知致しました」そう言う加山良江にはほんの少しの迷いも無い。「データ移行に使うものを用意しておこう」高嶺遼大がそう言って、部屋を出る。私も加山良江もそれに続く。◇◇◇一条クリニックでの予約を取った私は視線を伏せて歩く。今回気付いた目元のシミが気になって仕方ない。(私は美しくある筈でしょう? 豊胸もして、バレないように顔だって少しずつ変えて来たのに)車に乗り込み、運転手に言う。「森崎の家に戻って頂戴」車が走り出す。森崎の家は裕福では無いけれど、車くらいなら何とかなる。これで車も使えないのなら、森崎の家に居る意味なんて、本当に無くなってしまうわ。真っ赤なイルミのバッグから手鏡を出し、目元のシミを見る。(やっぱり、濃くなっている気がする……)どうしてなのかしら。一条和輝は一時的にターンオーバーのサイクルが乱れているだけだと言ったけれど。それでも気になるものは気になる。だからこそ、レーザー治療の予約を取ったのだけど。予約はすぐには取れなかった。レーザー治療の予約は明日になってしまった。すぐにでも取り除きたいのに!このままではサロン・ド・オーキッドにも行けない。私の使っている部屋は照明が明るいのだ。そこでふと思い付く。そうか、だったら照明を落とせば良いのよね。普段は強い照明の中で自分自身を魅せる事にこだわっていたけれど。たまには趣向を変えれば良いんだわ。レーザー治療した後は紫外線にも気を付けないといけないし、強い照明はしばらく止めて……そう思った私は車中で電話する。「あ、私よ。私の部屋の照明をしばらくの間、少し落とすわ。お肌の調子が悪くてね、よろしくね」一方的にそう告げて電話を切る。レーザー治療の料金は数万円程度。その程度のお金なんて、一晩で稼げるわ。◇◇◇「あ、先生」院内に戻った私を見つけた看護師が声を掛けて来る。「どうしたの?」足を止めて聞くと、看護師が言う。「藤堂氏の意識が戻りました」そう言われて私は高嶺遼大を見る。「すぐに行こう」高嶺遼大がそう言う。加山良江に向き直り、言う。「あなたは一度、久遠家に戻って」そう言うと加山良江が言う。「はい、分かりました。私の方で持っている
「愛沢くるみが引っ掛かった」高嶺遼大がそう言う。「一条さんの所に、もう行ったの?」私がそう聞くと高嶺遼大が頷く。「あぁ、特別配合のシミ取りクリームが功を奏したってさ」そう言われて私は微笑む。あの愛沢くるみの事だもの、自身の目元のシミなんて絶対に許せないに違いない。「すぐにレーザー治療がを始めるらしいが、それは今日じゃない」そう言われて私はホッと一息つく。「和輝はその辺、知り尽くしているからな」そう言って笑う高嶺遼大に聞く。「知り尽くしてる?」そう聞くと高嶺遼大が言う。「求めるものを、すぐに渡したんじゃ、有難味が無いだろう?」そう言われて少し笑う。「焦らすって事ね」そう言うと高嶺遼大が頷く。「あぁ、そうだ」不意に湊の持っているスマホが鳴る。湊はスマホを見て、微笑む。「呼び出しだ」湊が見ているのは病院用の呼び出し専用のスマホだった。「急患?」そう聞くと湊が頷く。「あぁ、そうらしい。脳外の俺が呼ばれるんだから、脳梗塞か、くも膜下出血か」湊はそう言いながら私たちを見て微笑む。「ちょっと行って来る」そう言われて私は湊に言う。「いってらっしゃい、何かあれば呼んで」湊は私にそう言われて苦笑する。「あぁ、いざとなったら、頼む」そう言って部屋を出て行く。その様子を見ていた高嶺遼大が言う。「湊くんはもう大丈夫そうだな」その声は優しく、何だか湊の兄のようだと感じる。私はそんな高嶺遼大に言う。「何だか湊のお兄さんみたいな言い方ね」そう言うと高嶺遼大が言う。「まぁ、そんなようなもんだ」そう言われて笑う。「一条クリニックの方での愛沢くるみのアトマイザーのすり替えと、本宅の方の愛欲の女王本体のすり替えだが」高嶺遼大が言う。「そうね、誰がどこへ向かうべきなのかしら」私がそう言うと、高嶺遼大が少し考えて言う。「まぁこの人員だと、愛欲の女王に侵されていない俺や燈が出向くのが一番だろうな」確かに高嶺遼大の言う通りだろう。私や遼大は愛欲の女王に晒されていない。だからこそ、その場でのちゃんとした判断が出来るだろうけれど、湊や加山良江では、もしかしたら体調に不良が出てしまう可能性だってある。本人に気付かれずにすり替えを完了させなければならない。「出来れば、レーザー治療中にスマホの中身もこちら側に送信したいところだが」そう言
鏡に移った自分の姿に私は驚愕する。さっきまで美しく見えていた私の顔が……目元が……。加山良江に会いに行き、彼女を抱き締め、湊に口をきいてあげると適当な事を言っておいた。いつもそうだ。そうやって加山良江には便宜を図ると言っておけば、彼女は私を崇拝する。ずっとそうだった。だから今回もそうした。彼女は今、久遠家に閉じ込められている。たかが森崎の家で私に高嶺遼大と佐伯燈が森崎の家に来たと、告げ口をした程度で。その程度で久遠家から出して貰えないなんて。そう思ったけれど、久遠家は代々続く財閥家なのだ。使用人の水準も高い。自分の雇い主の情報を伝えるなど、あってはならない事なんだろう。そう思いながら私は自身の“女王の部屋”に戻った。スマホを手に取り、大きく柔らかいベルベットの椅子に腰かけ、予定を確認する。その時にふと、鏡が目に入った。そして私はその鏡を見て、驚愕したのだ。立ち上がり、全身を写す鏡の前に立つ。私の体を包む妖艶な下着は私の体をこれ以上無い程に飾り立ててくれている。それなのに、さっき、シミ取りクリームを塗った、あの気になっていた目元が少し黒ずんで見える。(どういう事なの?)(シミ取りクリームじゃないの?)そう思いながら私は鏡に映った自分の顔を、目元を凝視する。(こんなのおかしいわ! そんな訳、無いのよ!)そう思いながら私は一条和輝から買ったシミ取りクリームを手に取る。グランドクィーンと名付けられたそのクリームは一条クリニックでは売れ筋のクリームだ。スマホで検索してもおかしな検索結果は出て来ない。(特別な配合にしたと、一条和輝はそう言ったわね)そう思いながら私は別の可能性を考える。もしかしたらその特別な配合が私には合わないのかもしれない。何度も確かめるように鏡を見る。何度見ても最初に見た時より、シミが目立っているように感じる。これじゃあ意味が無い。私は手に持っていたクリームをバッグに放り込み、急いでメッセージを送る。~一条先生、大変なんです~◇◇◇送られて来たメッセージを見る。「もう効果を発揮したのか、それともそれだけ愛沢くるみが美に執着しているか……」そう独り言を呟きながら笑う。そして善良な医師の皮を被り、返信する。駆け込んで来た愛沢くるみの目元は配合したメラノ・リベレーターが効果を発揮している事を物語っている。「先生、
そう聞くと高嶺遼大が笑う。「さぁな。だがただの香水として使っている訳では無さそうだったな」そう言う高嶺遼大に聞く。「それはどういう事?」私にそう聞かれた高嶺遼大は少し笑って言う。「愛沢くるみは俺の前で“これで颯太も湊もイチコロだったのに”ってそう言ったんだ」愛沢くるみならそう言うだろうと思うと笑える。「それが何を意味してそう言ったのかは分からない。自分の体なのか、その態度なのか、愛欲の女王なのか」あの愛沢くるみが愛欲の女王の作用を知っているかどうかは、本人がそれを意識して使っているかどうかで、その重要度も変わって来る。いずれにせよ、一番の被害者であった湊は今、目の前でその解毒
そう言うと新見医師が慌てて言う。「そういう意味じゃ……」私はそんな新見医師に笑う。「分かってるわ、大丈夫」そして決意を新たにする。「変えなくちゃいけないわよね」私は手を洗い終え、歩き出す。「燈先生……?」そう言う新見医師に微笑み、私は言う。「お疲れ様」その場を出る。すると私と一緒に術室に入った人たちが一斉に私を見る。「お疲れ様でした」私がそう言うとその場の全員が一斉に頭を下げる。「燈先生、お疲れ様でした」◇◇◇「湊くん、出来たぞ」高嶺遼大が自身で配合した“解毒薬”を持って来る。「もう出来たのか?」そう聞くと高嶺遼大が笑う。「こういうのは得意なんだ、だから
くるみはいつから俺……いや、俺たちに罠を張り巡らせ始めたんだろう。高嶺遼大に大学時代にはもう罠は張られていたのかもしれないと言われ、そう思う。愛沢くるみは佐伯家の家政婦をしている愛沢幸子の娘。愛沢くるみが俺たちの間に入り込んだのは3歳か4歳の頃だったと記憶しているが。その頃は愛沢くるみも使用人の娘として、振る舞っていたし、そんな愛沢くるみを誘い出し、遊びに連れて来たのが燈だった。(いつからだ……? いつから……)そう思い返そうとすると、頭が痛くなる。顔を顰めて頭痛を我慢する。「大丈夫か?」高嶺遼大にそう聞かれ、俺は目を閉じたまま言う。「あぁ、ちょっと頭痛が……」高嶺遼大は柔らか
あの時から五年の月日が流れていた。燈が俺に離婚を切り出し、姿を消したあの日から五年。俺の人生は完璧そのものだった。他人の目から見たら教科書通りの“成功”そのものに映るだろうくらいには。聖カトリーナ国際医療センターで最年少で外科部長となり、学術的成果も目覚ましく、名声は日に日に高まり、メディアからは「心臓外科の頂点」とまで言われていた……いや、今もそうだ。でもその裏には孤独に耐える日々が続いている。俺の隣には今、誰も居ない。五年前のあの日、一緒に妊婦検診に行ってくれと頼んで来た愛沢くるみ。俺の子供を流産し、病院に担ぎ込まれた俺の妻。俺はそんな妻からの連絡を受けた時、自分の望みが成就